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現在は、カウンセリング(思考のクセをなおす)、瞑想と呼吸(マインドフルネス)などで、だいぶ軽くなりました
即効性がある方法ではないので、はっきりとした変化を感じるまでに数ヶ月~1年かかりました。以前より頭の中がスッキリして、なかなか快適です
現在はお薬を全く飲んでいないので、メンテと訓練だけでどこまで変われるのか…これからも続けてみたいです
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「障害者はなぜ生きづらいのか?」ということを考える時に、「個人モデル」と「社会モデル」という考え方があります。
難しそうな話ですが、ざっくりまとめます。
まず、「個人モデル」。
障害者は障害が理由でできないことがあるから生きづらいのであり、その障害を治療や訓練によって治していけば、障害がなくなり、生きやすくなる。それでも治らない、治るのに時間がかかるところは、福祉や社会が温かい手を差し伸べよう、という考え方です。
平たく言うと、「あなたが悪いのです。あなたはまず障害を治す必要があります。あなたには社会に合わせる努力が必要です。あなたは障害があることで免除されているんだから、一般の人と同じ権利を得られないのは仕方がありません。対等に扱われたかったら、治りましょう」。
次に、「社会モデル」。
障害者が生きづらいと思うのは、社会の物理的なバリア、制度の不備、一般の人々の障害に対する偏見や無理解があるからで、社会の物理的バリアを取り除いたり、制度を作ったり、一般の人々の間に障害に対する正しい理解を広めていくことが必要だ、という考え方です。
平たく言うと、「あなたは悪くありません。あなたは障害を治さなければと無理に頑張らなくていいのです。それよりあなたが生きやすくなるように、社会に障害への理解を広めていくことが大切です。あなたは障害があっても、一般の人と平等の権利があります。あなたはありのままでいいのです」。
こう書くと、個人モデルは厳しいことを言うなあ、社会モデルは進んでいるなあ、となんとなく感じる人もいるかもしれません。
現実の社会や行政や学校は圧倒的に個人モデルで動いています。だから障害があっても頑張る人、障害が比較的軽い・治りやすい人が受け入れられやすいのです。企業でもそのような人が優先的に採用されるのです。一部マスコミは社会モデルを取り上げることがありますが、彼らも本音は個人モデルです。
さて、障害者に関わる世界では、個人モデル寄りの人々と、社会モデル寄りの人々が、それぞれ派閥を作って対立しています。
個人モデルは、障害は悪いもの・あってはならないもの、あるいはそこまではいかなくても、ないほうがいいと考えます。
社会モデルは、障害は個性、あるいはそこまではいかなくても、受け入れるべきものと考えます。
個人モデルは、社会は障害者に冷たいとは考えておらず、治療にはげみ努力する障害者がいれば社会は彼・彼女を自然とサポートするものだ、それでもうまくいかなかったら環境を変えればいい、と考えます。
社会モデルは、社会は障害者を排除していると考え、障害者の目線から社会の問題をえぐりだし、誰ひとり排除しない社会を目指して、社会を変革していこう、と考えます。
個人モデルは、社会モデルなんて広めれば「障害を盾にしたわがままの主張」をする障害者が増え、社会が混乱する、と考えます。
社会モデルは、個人モデルを続けていれば障害当事者と家族に過大な負担をかけ、社会の差別や虐待は不問にし、いつまでも社会の理解は進まない、と考えます。
さて、ここからが大事です。
社会モデルはなんとなく進んでいるように見えますが、欠点もあります。それは社会の理解にも限界があり、障害のなかには社会に受け入れられない問題行動もあること。発達障害のパニック、コミュニケーショントラブルなどがいい例です。障害当事者側に問題行動があるから受け入れられず、生きづらくなるケースがある。社会モデルはそれを不問にしてしまうおそれがある。問題行動を伴う当事者を受け入れる社会の負担は青天井となり、社会が混乱するおそれがある、ということ。
その問題行動について、個人モデルと親和的な治療や訓練が必要なこともあります。問題行動を治す治療や訓練が確立して広まれば、結果として「社会の理解」が広まることもある。問題行動が治ることで、できないと思われていたことができるようになり(発達障害で言えば対人的な仕事やマルチタスク的な仕事など)、個人の生き方の選択の幅が広まる可能性があるのではないか、ということです。
個人モデルと社会モデルは、歴史的には個人モデルの方が古く、社会モデルの方が新しいです。
今でこそ個人モデルは冷たいように聞こえますが、医療が未発達だった時代には治らないと決めつけられ隔離されていた障害者が、医療が発達した恩恵で一般社会に戻れる可能性を開いたことは確かです。極めて人道的なモデルです。
ところが、医療はすべての障害を治せるわけではなく、個人がどんなに訓練に励んでも治らない局面もやはり出てきた。そこで、「社会」に根治できない障害を理解してもらうことで解決していこう、という思想が、障害当事者から生まれてきました。障害当事者はこれを「社会モデル」と名付け、一方で従来からある「個人」の努力で治療や訓練を重んじる考え方を「個人モデル」と呼んで批判対象にしたのです。社会モデルも、従来の個人モデルでは置き去りにされていた問題を指摘したことは確かです。
しかし、医療や社会の発達で治らないと思われていた障害も治るようになることや、補助具が発達して障害だと思われていたものが障害ではなくなることはよくあります。メガネがなかった時代には近視は障害でしたが、メガネが普及した現在では障害ではありません。今、メガネをかけている人を見て、誰も障害者だとは思わないでしょう。では、発
達障害はどうでしょうか? 今後治る可能性はないのでしょうか?
その障害は本当に治せないのか? そこをよく考えて、時にはやはり治せるものなら治した方がいい、という考えに立ち返ることも必要でしょう。
社会モデルは、多くの身体障害のように、治らない(症状が固定化された)障害を想定したものです。
けれど、発達・精神の障害については、異なる考えもできるのではないでしょうか。
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8月23日に出版された花風社の新著。
花風社は、発達障害が認知される前から、発達障害に関する独自の書籍を出版してきました。著者の浅見淳子氏は、自閉症の翻訳者ニキ・リンコ氏と出会い、良い仕事を重ね、自閉症の世界に惹かれました。しかしその一方で、一部の問題行動を伴う自閉症者からの人格攻撃や、一部の硬直した社会モデルを主張する専門家に疲弊した局面もありました。そうしていた時に、「発達障害は治る」という日本では少数の立場の医師や、身体アプローチ(ヨガやピラティスのようなアクティビティやパーソナルトレーニング)による発達障害の治療法に出会いました。
タイトルから一見過激な個人モデルへの復古に見えて、読んでいくうちに社会モデルの限界をも克服し、当事者が真の意味で人間らしく、精神的にも経済的にも向上し、主体的に生きられるようサポートすることを目指していることがわかります。発達障害が治ることで障害者枠ではなりえない職業に就け、納得いく収入を得られる可能性があること、そして「発達障害を治す」ことは、決して当事者に昭和的な根性論を強いるもの(従来型の個人モデルにはそういう残酷な面があり、その点も批判されていました)ではないこと、治るには当事者が治りたい・治っていくのが楽しいと思える自発性と、周囲が当事者を好意的に発達援助する環境が大切であることまで併せて説いています。
社会モデルで動く発達障害支援者への批判が強すぎるトーンになじめない人もいるでしょうが、きれいごとでない本音の問題を思考停止させることなく解決していくのに有意義な一冊です。
最後に、個人モデルと社会モデルは対立すると考える人もいます。しかしそうではなく、それぞれの欠点を補完していくのが現実的です。