意外に知られていない!広島、長崎の原爆の前に投下の予行演習にされた都市
◆島田空襲(しまだくうしゅう)は、1945年7月26日 に、静岡県島田市に対して行われたアメリカ軍による空襲。1 太平洋戦争末期の発の大型爆弾が使用され、49人が死亡した。
1945年8月14日に春日井市に4発、挙母町(現豊田市)に3発投下されている
第二次世界大戦中、広島と長崎に原爆が投下されたことは有名ですが、実はその二都市に投下される前に静岡県島田市に原爆の投下の予行演習として、長崎に投下された原爆と同型のパンプキン爆弾という爆弾が投下されていました。この事実は意外に知られていません。
1. 原爆の投下前に、静岡県島田市にて実践訓練として、パンプキン爆弾という爆弾が投下されていた。
島田空襲(しまだくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年7月26日に、静岡県島田市に対して行われたアメリカ軍による空襲。1発の大型爆弾が使用され、49人が死亡した。
なお、死者については50人以上とも言われており、地元島田市の寺院にあるパンプキン爆弾によって死亡した方の位牌には、50人の犠牲者の名前が刻まれている。
この空襲は、原子爆弾投下の実戦訓練として行われた作戦のひとつであった。使用された爆弾はパンプキン爆弾と呼ばれるもので、後に長崎に投下されたファットマン型原子爆弾を模した形状の特殊な爆弾(模擬原爆)である。1945年7月から、アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機によって、日本各地に訓練攻撃として投下が行われていた。
具体的被害の記録
静岡県の遺跡・古墳・城跡ガイド : 太平洋戦争末期 島田空襲 B‐29が投下した模擬原爆(パンプキン爆弾) (静岡県島田市扇町)
http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/5100484.html
静岡県の遺跡・古墳・城跡ガイド 静岡県内の遺跡・古墳・横穴・窯跡(古窯)・廃寺・経塚・墳墓・中世墓・磐座(いわくら)・城跡・砦・陣屋など、埋蔵文化財を探訪して地図付きで紹介。考古学イベント、歴史博物館、郷土資料館、展示会の情報あり。 状況はすべて探訪時のものであり、その後消滅または立ち入り禁止となった場所があるかもしれません。 探訪はすべて自己責任でお願いします。原則リンクフリーです。 静岡県の…
長崎の原爆と同じ形をしている爆弾です。
米軍は、新潟市 を原爆の攻撃目標の一つとして検討しており、その訓練攻撃目標として7月26日に富山市の軍需工場への投下を選定していた。
しかし天候不良のために予定通り実行できず、代替目標地として島田市に投下される事になった。
したがって島田海軍技術研究所や軍需工場等の軍事関連施設を狙った空襲ではなく、市街地に対して投下される結果となった。この1発の大型爆弾による被害は、死者49名、負傷者140余名、全壊家屋60戸。
模擬原爆(島田) 昭和20年7月26日に、 静岡県島田市 に一発の大型爆弾が投下された。 この空襲は、原爆投下の実戦訓練として行われた作戦のひとつで、使用された爆弾は後に長崎に投下された ファットマン型原子爆弾を模したパンプキン爆弾(模擬原爆)であった。 米軍は、 新潟市 を原爆の攻撃目標の一つとして検討しており、その訓練攻撃目標として7月26日に 富山市 の 軍需工場への投下を選定していた。し…
広島、長崎と多くの人命が失われた原爆投下。 日本の敗戦が濃厚だった情勢下の静岡県島田市で アメリカによる 原爆投下模擬訓練 が行われていたのを ご存知だろうか? 私も、事実はおととしくらいに知ったのですが 静岡では、敗戦ひと月前くらいの島田...
あなたは知っていましたか?: 遠い太鼓
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太平洋戦争に関連した情報発信ブログ。太鼓のようにどろどろと遠く響くように、過去の忌まわしい戦争を2度と起さないように、様々な太平洋戦争関連情報(新聞記事、書籍情報など)を次の世代に次の世代に伝えていきます。
島田市の爆心地
静岡県島田市扇町周辺の地図 - Yahoo!地図
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パンプキン爆弾とは
正式名称は「1万ポンド軽筒爆弾」。「ファットマン」とほぼ同一の形状を有し、重量もファットマンとほぼ同一になるよう調整された模擬原爆で構造分類上での通常型爆弾のコードネームである。マンハッタン計画に携わる、ロスアラモス研究所の科学者と兵士によって命名された。
この爆弾は原爆投下に備えた爆撃機乗員訓練のためと、今までに例のない特殊な形状をしたファットマンが爆撃機(原爆搭載可能なように特別に改修したB-29)から投下され爆発するまでの弾道特性・慣性能率等の様々な事前データ採取のためにいわば「模擬原爆」として製作された。
模擬原爆を投下するなど、用意周到に行われた計画だったと言える。
島田市以外にも投下されていた。危うく皇居にも投下されるところだった!?
アメリカ軍の資料によれば、前述の目標に投下できない場合には臨機目標としてどの都市でもいいので町の真ん中に落とすようにという指示があったとされる。その為、7月26日の訓練では天候悪化により富山の軍需工場への爆撃に失敗しその帰りに島田市(島田空襲)、焼津市、静岡市、名古屋市、大阪市など軍需工場とまったく関係ないところにまで投下されたというような例もある。
原爆投下より前の模擬投下は「フェーズⅠ」として行われ、その後「フェーズⅡ」として8月14日に春日井市に4発、挙母町(現豊田市)に3発投下されている。これは戦後にこの爆弾を使用して効果が得られるかどうかのテストとして行われたもので、有効な兵器とされたが生産コストに見合わないとして不採用とされた。
陸軍航空隊のエリートパイロットでB-29「ストレートフラッシュ」の機長であったクロード・イーザリーは、7月20日の訓練で郡山市の天候悪化のため皇居に向けてパンプキン爆弾を投下(昭和天皇の殺害を目論んだとも言われている)するも目標を外し、呉服橋に着弾させている。アメリカ軍は、降伏交渉相手であると同時に日本人に対する心理的影響を懸念し、皇居を狙ったいかなる攻撃も禁止していた為、イーザリーのこの独断行為は命令違反とされた。
皇居に爆弾が落とされようとしていた事実はあまり知られていません。
あまり知られていないところでも、計り知れない犠牲者が出ていたことを忘れてはならない。
憲法の解釈の見直しが検討されている中、武力で普通に暮らす人々の幸福や生活の営みを奪うことは、いかなる理由があっても許されることではありません。
唯一の被爆国である日本は、そのことを強く世界に訴え、亡くなった方のいのちを礎に築かれた平和を、維持する努力が求められます